学校はいつできたのだろうか~学校の歴史①~

 本columnでは,2020年の教育改革の本質に迫りたいと思っています。そのためには,単に2020年に言われたことを実施するだけではうまくいきません。その背景には,私たちが何を目指し,どのように教育を施し,何に問題意識を持ってきたか,を知らなければならないからです。
〇〇が失敗だったから□□を導入→□□は失敗だったから△△を導入→・・・
こういった教育改革の一面だけでなく,この流れをしっかりと把握して「本当に必要なこと」を子どもたちに伝えることが大切だと思います。ですから,とても長くはなりますが,一歩一歩進んでいきたいと思います。記念すべき第1回は,学校の歴史です。どうかお付き合いください。

日頃,私たちは教育や学校,受験といった言葉をニュースや雑誌などで目にします。それと同時に,日常会話の中でも私たちはこの言葉を通して様々な情報を伝え合っています。ある人は,子どもの受験への不安な気持ちを友人に伝え,ある人は子どもの部活動での活躍を願い,その想いを家族に伝えているかもしれません。もちろん,自分自身の学校での生活を語る子ども達,自分自身の高校時代の思い出を語る大人など,様々な状況でその語り口(ディスクール)は変わってくるでしょう。

 

図 アテネの学堂 様々な哲学者が描かれている(筑波大学付属図書館HPより)

 

 それでは,この教育はいつはじまったのでしょうか。梅根悟という教育学者は,『教育の歴史』の中で,古代の人々のイニシエーション(通過儀礼)を例に初期の教育について語っています。通常,多くの概説書ではギリシャの哲学者ソクラテスの問答法から教育について記述するものが多い印象を受けますが,教育はもちろん人類誕生とともにあります。
ただ,その対象や目的,方法は時代や文化,出身階級などにより様々であり現在の教育とは少し違うものでした。ソクラテスの時代は奴隷がいましたので,教育も市民に限られていたでしょうし,スパルタでの教育(スパルタ教育の語源となったギリシャ時代の都市国家スパルタで行われていた教育)とアテネでの教育は目的も方法も異なっていました。それでも近代教育に影響を与えたのはこのアテネのプラトン,アリストテレス,ゼノン,エピクロスなどの4学校と呼ばれるものでした。
ギリシャの後に発展したローマでは,父権が強く,その当初は父親からの家庭教育が中心でした。しかし,長いローマの歴史とともに,その教育のスタイルも徐々に変化していきます。ローマでは共和制から帝政期を経て,政治,文化,宗教と大きく変化をしたのですから仕方ありません(ちなみにキリスト教の発展もこの頃になります)。さて,父による家庭教育から,私的な読み書きを教えた教授施設(ルーデゥス),さらにギリシャ文化を学ぶための学校の開設と,時代とともにローマの教育は変化していきました。歴史上,長い安定期は職業の固定化を生み出します。親は,子の立身出世のルートを確保するために教育を求めます。この気持ちは,中高等教育機関の整備をもとめ,そこでリベラルアーツが学ばれるようになります。この時期,その後の教育界に大きな影響を与え続けるリベラルアーツが確立していきました(後述)。ローマの高等教育機関ではギリシャと異なり法学など実利的な分野が発展し,「ローマ法大全」の編纂などローマ文化の方向性とその教育の質の高さを示すものとして結実していきます。
ローマをはじめとする地中海諸国は,その後イスラム世界の興隆により,イスラム圏での教育へと移るのですが,多くの概説書はこの部分を飛ばして,12世紀の大学誕生へと進むことがあります。科学の歴史も,教育の歴史もだいたい,数百年近く飛ばされてしまうのです(学校の理科の教科書の最後のページによくある「科学史年表」も空白の期間がありますが,これをホイッグ史観〔勝利者史観〕と呼びます)。実際は,イスラム圏でも教育はなされており,様々な学問が誕生しており,その後の西欧に与えた影響は計り知れません。
イスラムではバイト・アル・ヒクマ(知恵の館)と呼ばれる学問施設が創設され,多くの学者達が,ギリシャ,インド,ペルシャ,バビロニアにおいて発達した様々な学問をアラビア語に翻訳し,それを新たに統合し,研究を進めていきました。その他にも学問所(マドラサ)が設立され,この施設はいまだに中核的な教育機関として機能しています。中でも,カイロのアル・アズハルは世界最古の大学とも言われています。

 

図 15世紀のイスラム『人体の解剖』に掲載された図(『科学で読むイスラム文化』より)

 

 さて,西欧諸国が建国され,生活が安定してくるとともにイスラム世界の力と西欧諸国の力が拮抗するようになっていきました。そんな中,西欧で十字軍が編成されます。西欧がイスラムに侵攻すると,西欧人はイスラムの文化に触れることになります。はじめは十字軍によるイスラムへの侵攻だったのですが,徐々にレバント貿易などの商業でのやり取りも生まれ,西欧人はイスラム世界において保存されていたギリシャ・ローマなどの古代の様々な学問分野に触れるようになっていきました。こうして,西欧諸国に知識とともに,新しい考え方が広まっていったのです。はじめに貿易によりイタリアの商人等の間にアラビア数字の利用が広まったようです(フィボナッチ数列のフィボナッチもイタリアの商人ボナッチの子どもです)。 

 

図 ローマ式の算術板とアラビア数字の計算法で競争している図(『十六世紀文化革命』より)

 

 その後,医学,地動説,光学,数学など様々な学問が紹介されていきます。12世紀,これらのイスラムから輸入された新しい知識や技能を学びたいものが集まり,知識を持っている人に教えを請いました。この学びたい者達の集まりをウニヴェルシタス(組合)と呼び,いまのuniversity(大学)となっていきました。

 

図 中世大学の講義風景 (『ヨーロッパの大学』より)

 

 はじめ,この動きはボローニャ,パリにはじまり,たちまちのうちにヨーロッパ全土に普及していきました。それ以前も修道院で宗教を学ぶ学校はありました。そこでは,聖職者の養成のほかに,一般人の教育にもあたり,いわゆる自由七科(リベラルアーツ)を教えていました。自由七科とは,文法,修辞学,論理の三学と算術,幾何,天文,音楽の四科からなっていました。言葉の由来は古代ギリシャのプラトンにまでさかのぼることができますが,これが確立されたのはローマです。これらの学問を修めれば,自由な精神を持ち,自由な生活が約束されるという意味で使われることが多く,現在の日本では「教養」の意味を持っています。
さて,このような教養に対して,12世紀の大学(ウニヴェルシタス)では専門的な内容を学ぶために都市に流入した若者達が,それぞれお金を出し合い,教師を雇う形で発達していきました。これがカレッジとなります。そして,医学,法学など新たに必要とされてきた学問を中心に発展していきます。ここで,注意したいことは,「学びたい者」が「知識を持つ者」を雇っているということです。指導については教師がしますが,人事権は生徒にあったということです。ですから,現在の大学の自治権の起源はこのあたりにあるわけです。
本校の研修場所である,OxfordとCambridgeですが,最初に発展したのはOxfordでした。11世紀にすでに教育の中心であったOxfordですが,当時パリで学んでいた学生達が国王により呼び戻されたことにから,パリ型(いわゆるウニヴェルシタス)の大学ができました。その後,ある事件をきっかけに,Oxfordの学生達がCambridgeへと移動し,新たな大学をつくりました。その後,大学は宗教改革や近代国家形勢の歴史的流れの中で,さらなる変革をしていきました。そして再びローマの頃と同様に,大学は専門的に学問を深める側面とともに,ここでもまた貴族の師弟の教養を提供するような側面も持つようになっていきました。この影響は,大学に入るための予備学校を形成し,それが中等教育学校となっていきました。いわゆる,英国のパブリックスクールの誕生です。
一方,庶民の学校は,はじめ単なる読み書き計算を教える小学校だけでした。しかし,近代化により工業技術などが発展していき,庶民にも専門的な技術や知識が必要になってきました。それにより,新しい技術や知識を伝達するための学校が設立されます。このように,「大学に入るための中等教育」と「近代社会の新しい技術や知識を学ぶための中等教育」という,双方からの要望で様々な学校種ができてきました。こうして,この時期,大学だけでなく,初等学校,中等学校(いわゆる中学高校)が形成されていったのです。

 

図 いわゆる庶民のための学校(『モダンのアンスタンス』より)

 

図 合理化されたベル・ランカスター方式の学校(『モダンのアンスタンス』より)

 

 それでは,わが国,日本の教育は,どのように発展していったのでしょうか。日本では,大陸の文化を取り入れるために,さまざまな知識人を大陸から招聘し,漢学,儒教,そして仏教などを学んでいきました。その中で,私的な教育機関が発達していったといわれます。奈良時代(平安京の頃)には,官吏養成を目的とした大学寮が都に,国学が各地方に設置されていきました。ここから一族のための私学が形成されていき,それが平安期に入り,わが国独自の思想を形成するようになっていきました。近世に入ると,江戸の安定した政権下で,各藩が藩校を組織するとともに,寺子屋など読み書きそろばんを教える文化が育っていきました。そのおかげもあり,日本は国際的に類を見ない識字率を確保し,非常に発展した文化都市を形成していったのです。

 

図 学校体系の類型(『現代教育概説』より)

 

 そして,明治維新後,木戸孝允は1869年1月(明治元年12月)国民一般の知識水準の向上を期すために学校の設置を提言し,その後1872年9月にいわゆる「学制」として頒布されました。このあたりは,日本史でもよく出てくる内容ですが,ここで,全国を8大学区に,1大学区を32中学区に,1中学区を210小学区に区分しました。しかし,藩校や寺子屋を基礎とした文化が既に形成されていたこと,自由民権運動など様々な要因のもと,この制度は揺れ動いていきました。そして,初代文部大臣森有礼により小学校,中学校,帝国大学という学校体系としての日本の教育システムが完成されました。
この帝国大学は,国家のために研究・教授をするところであり,国家機関としての機能が強いものでした。同じ頃,独自の理念に沿った教育を行う私塾も生まれていき,それぞれが政治,医学,法学などを出発点に成長を遂げていきました。これが,旧制専門学校となり,1920年に大学令により慶應義塾大学,早稲田大学,明治大学,法政大学,中央大学,日本大学,國學院大學,同志社大学といった旧制大学となるのです。この大学令により設立された大学は,時あたかも大正デモクラシーの思潮のただ中で生じました。ですから,新教育運動ともあいまって独自の教育機関として発展していくことになります。
ちなみに,日本大学は,学祖の山田顕義(時の司法大臣)が設立した学校がもととなっています。明治に入り,多くの私塾が欧米の法律を学ぶことを中心に据えた中で,日本大学の前身である日本法律学校は,「従来の法律学校のように欧米諸国の法律の講義を中心とするのではなく,日本の法律の講究を目指した学校を創立」したのです(詳細は日本大学HPにあります)。このように,私立学校はその発祥の段階から,それぞれが理念を持ちそれをもとに発展しているのです。その付属である土浦日本大学中等教育学校では,日本大学の理念の「自主創造」をしっかりと受け継ぎ,私学として独自の教育を展開しています。是非その目で,本校の様子を見に来てください。

かなり,駆け足で見てきた学校を中心とした世界の歴史ですが,その一つ一つにもっともっとドラマがあり,話し出したらキリがありませんのでこのあたりで今回の内容は終わりにしたいと思います。次回は,私たちが「どのように子どもたちに勉強を教えてきたか」について述べたいと思います。これまでの教育にどのような問題があり,2020年の教育改革がなぜ必要なのかに迫りたいと思います。

《参考・引用文献》
梅根 悟『教育の歴史』(新評論)
真野宮雄 増田 實 共編『現代教育概説』(学術図書出版社)
寄田哲夫 山中芳和 編著『日本教育史』(ミネルヴァ書房)
島田雄次郎『ヨーロッパの大学』(玉川大学出版部)
長尾十三二『西洋教育史』(東京大学出版会)
ハワード・R・ターナー『科学で読むイスラム文化』(青土社)
森 重雄『モダンのアンスタンス―教育のアルケオロジー―』(ハーベスト社)
山本 義隆『十六世紀文化革命1・2』(みすず書房)

ページの先頭へ戻る